K・SWJ通信 NO.8 2020.01.06

「武士道」としての合氣道         塾長藤谷

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開けましておめでとうございます。絆・勝稲和合塾道場が産声を上げてから2度目のお正月を迎えました。本年も「魂魄合一の合氣道」を目指して元気に稽古に励みましょう。

さて、2020年初のK・SWJ通信は、”「武士道」としての合氣道”について考えてみました。きっかけは、昨年12月2日に、ご縁を戴いて「非営利法人武士道協会」の理事長をお引き受けしたことです。この協会の創設者である立山百代さんが、武士道のキーワードとして「克己心」について書かれた文章に、私が「合氣道の精神」第二段落の「合氣とは、自己に打ち克ち、敵をして闘う心を無からしむ、否、敵そのものを無くする絶対的自己完成の道なり」という「合氣道のキーワード」についてと軌を一にする考え方である、とコメントさせて戴いたのが直接の契機となりました。

そして、このことがさらに契機となって、私が「合氣道の精神」の探究で、やり残していた第一段落の「合氣とは愛なり、天地の心をもってわが心とし、万有愛護の大精神をもって自己の使命を完遂することこそ、【武の道】であらねばならぬ。」という意味について考えを進めることになりました。その探究の成果をご披露します。ご意見を戴ければ幸いです。

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◆開祖は、合気道の原理を説かれた「合気道の精神」の第一段落で、「合気とは愛なり。天地の心をもって我が心とし、万有愛護の大精神をもって、自己の使命を、完遂することこそ武の道であらねばならぬ」と仰っています。

 

自己の使命」とは何なのか、「万有愛護の大精神をもって」「完遂する」様な「自己の使命」とは何なのか。

こそ」の意味は何なのか、開祖は、「合気道こそが、真の武道」である、と言っているのか。「武の道であらねばならぬ」とは、どういう意味なのか?武道とは、かくあるべし、しかしそうでない武道が多い、或いは合気道以外の武道は、その様ではないという意味なのか。

「その様ではない」とは、「相手を敵として、捉えて、闘うこと」ではないか。

では「その様」とは、どうするのか。合氣道が他の武道と決定的に異なるのは、「相手を敵として捉えないで、闘いのない境地に導く武道」である。

その事が、「合氣道の精神」の第二段落で説かれている。「合気とは、自己に打ち克ち、敵をして闘う心を無からしむ、否、敵そのものを無くする絶対的自己完成の道なり」と。

第一段落の「自己の使命を完遂することこそ武の道」という言葉と「絶対的自己完成の道」という言葉は、同じ事を説いているものと思われる。

とすると、「絶対的自己」を「完成」させることが「自己の使命」であり、それを「完遂」「武の道」「であらねばならぬ」とは、

「その様な人間にならねばねらぬ」「その様な人生を生き通さなければならぬ」ということである。

武の道」とは、「人が真人」になるための「

「その様な」とは、「絶対的自己」

「絶対的自己」とは、「敵をして闘う心を無からしむ、だけでは無く、敵そのものを無くする自己」

「自己」と「」との相対的関係ではなく、「自己と敵とは同一である」という絶対的関係

しかし、人間には「自己防衛本能」がある。それは「考え」や「意識」を超えた「本能」、

という生命体人間化長い歴史の中で脳幹にまで、深く刻み込まれた「本質的能力

人は、猛獣に襲われた時に自己防衛本能で身を守った。

が、社会的生命、「人間」となって、「他人」から攻撃された時、自己防衛本能は、その他人を「」として認知し、その「攻撃(という物理的有形力の行使)に対して反撃(という物理的有形力の行使)する」、そしてその反撃によって、相手を傷付けたとしても、それは「正当防衛」として、傷害罪にはならない。「違法性が阻却される(と考えられ、それが法律的に正しいと認められている)」。

このことは、万国共通の法律的原理である。その正当性の根拠は、自己と他人との相対的関係、社会において、「自己が正しいならば、他人()を傷付けても良い」ということである。

 

◆しかし、開祖盛平翁はその様な考え方を取らない。「自己に打ち克ち」「敵そのものを無くする絶対的自己」を「完成する道」を要求する。

 

「自己に打ち克ち」とは、「克己心」であるが、克たなければならないのが「誘惑に弱い心や安易に流れる怠惰な情」ではなく「人間の本能、本質的能力」であり、しかも、「相対性を原理とする現実的社会では正しいとされている考え方」なのである。二重の、生半可ではない「途方に暮れるほど困難な問題」である。不可能ではないのか。

しかし、開祖盛平翁は、その難問を解く「鍵」をも示してくれている。それが「合氣道の精神」の第一段落の冒頭合氣とは愛なり、天地の心をもって我が心とし、万有愛護の大精神をもって」なのである。

 

「社会的法的に正しい原理原則」の以前に立ち戻りさらに「人間的本能」の以前にまで立ち戻ると、そこには「天地の心」がある

「本能が生まれる以前」の「人」は、「天地の心を我が心としていた」。「天地の心」とは「万有愛護の大精神」、そこまで遡ると、「自己」は、「天地の心」「万有愛護の大精神」「大御霊」の一部、即ち「分御霊」なのであり、「他己」も「分御霊」であり、「自他同一」なのである。

 

◆この様に「克己心をもって、自他同一を実践すること」「人としての使命」であり、それを「使命」であると極めて「完遂すること」「武の道」「愛の道」「合気の道」である、と開祖は説いている。

これが「天の理法」(「合氣道の精神」第三段落)であると開祖は言っている。

 

◆現代社会では、「攻撃」は、物理的有形力の行使だけではなく、精神的無形力の行使によることもある。この様な攻撃に対しても、同様な方法で反撃するのではなく、「克己心による自他同一、愛、合気によって生きよ」と開祖は説かれているのである。

 

◆でも、なぜ、これが「武」「武の道」なのか。

 

このヒントは「武の道」「であらねばならぬ」にある。

これまでの人間社会は、「自他対立」の「相対的社会」であり、そこにおける「武」は、「物理的」であれ、「精神的」であれ、「論理的」であれ、いずれも「勝負」「勝敗」「優劣」の原理に基づく「武」であった。

「他人と闘う武」は、結果として、「相対的対立の無限連鎖」を、「自己の心の中に、そして社会の中に、産み出す」だけである。

そうではなく、開祖は「真の武」とは「他人との闘いではなく、自分の心と身体の中にある社会的常識や本能や欲望との闘い」なのだと説いている。この闘いには、「勝負」がある。もし「自分との闘いに勝つ(吾勝)ことが出来れば、天地の心、自他同一の心を手に入れ、愛、万有愛護の大精神に基づいて生きられる」。もし「自分との闘いに負ければ、相対的勝敗の無限ループから抜け出せない」。

 

人間は、何もしなければ、弱くて、怠惰で、本能的で、欲望的な存在である。だから、人には、自己と闘い、自己に打ち克つことが「使命」として与えられている。

 

「自分と闘い自己に打ち克つ志(「使命感」)を持った人」「武士」である。「自分との闘い方、克己心を身に着ける考え方や方法」「武道」であり、「武道を探究して、自己と闘う道程」「武士道」なのである。

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以上の文章を立山百代さんにメールしたら、次のような返信がありました。

「藤谷先生

植芝先生の教えはすごい教えだと思います。

それを説明していらっしゃる藤谷先生もすごいです。

意味が充分には解からなくても、スーッと体の中に入ってきました。

藤谷先生のおっしゃりたいことがすごくよく分かります。

久しぶりに武士道で感動しています。

最近は武士道を語り合うたびに、気持ちが伝わらないとか、枠にはめてはダメなのに、と思うことが多く、実は失望感ばかりでした。

本当にありがとうございます。嬉しい!!という気持ちでいっぱいです。

 

私は武道と名の付くものには一切触れたことがありません。

だから、武士道協会を設立した時に、「剣道もしたことのない人間に武士道を解けるか!」と元警察官だった人に言われたり、

「この人が武士道協会? もう少しいい人はいないのですか?」

と塩川先生に紹介された武道館の役員さんに言われたりしました。

主人は少林寺拳法で九州で1位になったり、柔道も高校時代に2段を取ったりしていました。

その主人がいつも言っていることと非常に似ていました。

合気道を知らない私の浅はかな智恵で考えるには無理があるので、生意気で恐縮ですが、拝読した瞬間に浮かんだ勘をこれから書きます。

書き方にも失礼があるかもしれませんがご容赦くださいませ。

 

()が意図して作ったこの3次元の世界・地球という星に生きる者・物の総てがある法則の下で生活をしている。

 すべては元に戻る(元に帰る)

 すべてが循環している

 すべてが自分の物ではなく借り物である(肉体も)

 すべてに独りじめ(占有)はならない

 すべてを分け合う

 すべてに善悪はない

 すべての結果は自分の行いからきている(因果応報)

 すべてに外敵はなく、敵と呼べるのは己の内なる思い()である

 

つまり、「自他同一の心」がなければ、「天地の心をもって我が心とし、万有愛護の大精神をもって、自己の使命を、完遂すること」ができないのだと思います。

ライオンはお腹がいっぱいで、恐怖を感じなければ襲ってこないと聞きます。

満腹で捨てるほど蓄えていても、襲うのは人間くらいかもしれません。

人間の恐怖心は、自分の生き様から生まれてくるものであり、遊牧民をみる限りでは、明日の蓄えがなくても生きることの恐怖はない様に感じます。

自己防衛本能で、も、明日の食べ物がなかったらどうしよう? と満腹の時に考えるから、食べ物を独占したくなるのであり、

自分がいつも他人に分けてあげている人ならば、そういう時も、心配に思う気持ちは浮かばないように思います。

植芝先生のおっしゃっていらっしゃることは、

万有愛護の大精神でいきるとは自分や親族にだけでなく、困っている人がいたら何とか助ける努力をする人になること、ではないかと思いました。

もちろんその時は、自分の家族への責任を全うした上での事でのことですが。

 

だから、「天地の心を持ってわが心とし、万有愛護の精神でいた」ならば、

・合気道の目的は、相手に勝つことではなく、相手を受け入れることなのでは?

・相手の気と自分の愛和の気を合わせることで、相手が自ら戦意を喪失してしまうようになるのではないか?

・殺そう、倒そう、勝とう、などと言う気持ちが自分になければ、相手の気と自分の気を愛により合わせ(合体し)てしまうことが出来るのではないか?

・そうすることで、相手は自分の体であるのに自由に動かせなくなってしまうのではないでしょうか?

・そして、相手の動きが、相手よりも早くわかるのではないでしょうか? だから倒さずとも避けられる

・それは、大人が泣きわめく赤子を抱き上げて泣き止むまであやしながら抱きしめているのと同じ状態になるのでは?

と思いました。

 

克己心は、例え、憎いと思う相手に対しても万有愛護の精神で接することが出来るようになるために必要なものであり、闘うべき対象は、目の前の敵である相手ではなく、自分自身の狭い心なのであると。

つまり、人間は自他同一を自然体でできるようになる為に、この世に生まれて来ているのではないか?

しかし、難しくてなかなかできないから転生輪廻を繰り返しているように思いました。

 

私は一時、真剣に考えたことがあります。

それは、どうしたら二度と生まれてこないで済むのか? ということでした。

1人で3人の子供の生活を見て、しかも、幸せ芝居をしながら生きなければならない学習院 、もう生きる事が辛くて逃げ出したい。

だけど、逃げたら子供達にこの苦労を背をわせることになる

自殺は他殺と同じで借りている肉体を綺麗に使って返さなければ閻魔大王に叱られる。

だから、見た目も若く、苦労が表面に出ない様に生きることが必要だ。

どうしたら良いのか? 

と真剣に思っていた時期がありました。

その答えは、二度とこの世に戻らないで済む方法は、西国浄土に行き如来になることでした。

如来になるには、良いことをたくさんしなければ行くことが出来ない。

だから、一生懸命、他人に親切をした時期がありました。

子供の事より他人の事を考えていたと思います。

でも、それは、他人のためにと言う純粋な気持ちではなく、自分の為にでした。

だから、家族よりも他人を優先できたのです。

だから、いくら他人に親切をしても気持ちが楽にはなりませんでした。

いつしか、子供が大人になり、孫まで生まれてきたら、考えなくなっていたことを、先生の文章を拝読して思い出しました。

 

人間が生まれてきた目的は人間全員同一であり、目的を達成させるための方法が違うのだと思います。

方法を各々各自で決めてきているのではないかと思います。

つまり、前世はロッククライミングで失敗したから、今回は尾根道をのんびり行こう、などという感じです。

だから、先生の最後のお言葉、

 

「自分と闘う志を持った人」が「武士」である。

「自分との闘う考え方や方法」が「武道」であり、「武道を探究して、自己と闘う道程」が「武士道」なのである。

 

これを武士道協会の武士道として広めて行きたいです。

感動しました。ありがとうございます。

先生の文章を、理事長挨拶に乗せたいと思いましたが、もう少し短くないと千先生との塩川先生とのバランスがあるので諦めます。

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