K・SWJ通信 NO.7 2019.12.27

合氣道における「技(魄)」と「精神(魂)」の統合    塾長 藤谷

*********************************************************************今年の〆は、またカナダ・トロントのJCCC合気会の市田さんからの質問に啓発されて「魂魄統合された合氣道」について、考察しました。**********************************************************************

【市田さんからの質問】                                         ◆トロントの幣会を含めカナダの現状では、少々新入会員の減少傾向があり、これらは一時的な現象と楽観的な見方もあります。これは小職の限られた個人的な見解ですが、日本文化と伝統と礼儀を弁えた指導方法の向上や、文武両道のバランスを理解が出来る指導者の育成方法の検討が肝要かと自問致しています。昨今世界的にも目まぐるしい社会現象の変化が生し、その流れに流されるか、その流れに付いて行けない人々の葛藤も観られます。世界的にも異常に日本文化や日本の実情への興味が拡大する現状にあり、日本の武道に求められる武道本来の指針の確立や、合氣道に於ける興味の分析や鍛錬の目的など、ある部分、合氣道に於ける革新的進歩改革が迫られているのではないかと思われます。                                         ◆藤谷塾長への質問ですが:合気道の身体的稽古に置きましては、それなりに研鑽会に於ける諸先生のご指導や、各部会の先輩達から指導を受け、それなりに継承出来て居ると思います。またビデオや、Youtube等による見分と学習も取り入れる機会があります。然し乍ら、「合氣道の八割は精神面」と説かれます植芝開祖の弁からも、合氣道に於ける「精神的鍛錬」や、「心の学習」方法など、具体的な指針が見つかりません。案内役を受け持ちます我々指導者も精神面の学習や理解不足から、道場に於けます指導や案内過程で前進がみられません。精神面の学習方法の模索から上手く学習と伝達や案内出来ていない現状に疑問と反省があります。******************************************************************* 【藤谷の返答】                                    ◆市田さんへ令和元年の御用納めの日に、合氣道の現状と将来についての「正鵠を得た問題提起」を頂き、市田さんの「合気道探求」の情熱と成果に感心致しました。そして「魂魄の統合された合氣道」という啓発を受けました。有難うございます。                正に、開祖も「霊主体従」と言われておられます。                    本来は、「合気道の身体的稽古」は、「主」である「合気道の精神」の「従たるもの」である筈です。しかし、これまでの合気道の普及の歩みは、身体的稽古(気の鍛錬を含めても身体的域を出ていない)を中心に行われてきたことは紛れもない事実です。それは、身体的稽古=技が、直接的で、分かりやすく、成果が目に見える事も理由でしょうが、精神的部分については、概念的で、分かりにくいことも有るでしょうが、本部も、意識的にこの部分の普及を行っていないことも原因なのでしょう。日本国内ですら、そういう状況ですから、海外においては尚更と推察されます。                                         ◆また、「合気道はその技の中に、合氣道の精神が反映されているのだから、合氣道の精神そのものを探求しなくても、技を探求すれば、おのずから、合氣道の精神を体現できる」という考え方も出来ないではありません。しかし、江戸剣道で一派をなした千葉周作が「考える稽古は考えない稽古よりも数倍優る」と言われているように、無意識の稽古よりも絶対に意識的探求が望ましいのです。                                     ◆それを阻んできたものは何か。それは「身体的稽古」を従たるものとする「精神的原理」が分かっていなかったからではないでしょうか。別の言い方をすれば、合氣道における精神的原理と身体的原理との「統合」が為されていなかったからだと思います。             ◆私は、この「統合」のヒントは、「武技は天の理法を体に移し、霊肉一体の至上境に至るの技であり道程である」という「合氣道の精神の三段落目」の言葉にあると考えています。   「武技」、すなわち身体的稽古は、天の理法、これこそ合氣道の精神的原理を、体に移したものなのです。しかも「武技」は「霊肉一体の至上境に至るの技」であり「道程」に過ぎない、というのです。                                         ◆では「天の理法」とは、なにか。それは「合氣とは、自己に打ち克ち、敵をして闘う心を無からしむ、否、敵そのものを無くする絶対的自己完成の道なり」という合氣道の精神の第二段落に示されています。                                   ◆問題は、「自己に打ち克ち」とは何なのか。さらに「敵をして闘う心を無からしむ、否、敵そのものを無くする」とはどいうことなのか、です。この答えは「合氣とは愛なり。万有愛護の大精神をもって、自己の使命を完遂することこそ、武の道であらねばならぬ。」という「合氣道の精神の第一段落」に示されています。                          ◆~~~済みません。ここから、続けると、あと2~3時間くらいは掛かりそうですので、少し端折りますが、以前にお知らせしてみて頂いた、絆・勝稲和合塾道場のホームページ https;//kizunashoto.jimdofree.com の 「KSWJ通信」の投稿のいくつかを見て頂ければと思います。                                        ◆ここでは、正に合氣道の精神による魂魄の統合に基づいて、「ゼロ化」「崩し」「制御・導き」の三段階メソッドを考案し、それを合気会の審査技について「解説」を展開しておりました。しかし、「言葉による解説」では、初心者にも難し過ぎるので、現在は、守央道主が「全合氣道人のバイブル」として出されている「規範合気道基本編」を全門下生に購入して貰い、その道主の分解写真とその解説に、私が付加補充したものを「絆・勝稲和合塾道場のテキスト」として配布して、実践し、実践を踏まえて補充を重ねながら、前進させているところです。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++【塾生の皆さんへ】                                         ◆令和2年には、「合氣道の精神」に基づいて「魂魄を統合した合氣道」を普及させるための「三段階メソッドに基づく合氣道テキスト」の充実に向けて、更に歩みを進めたいと思います。宜しくご指導ください。         では良いお年を。        塾長もり拝

 開けましておめでとうございます。絆・勝稲和合塾道場が産声を上げてから2度目のお正月を迎えました。さて、2020年初のK・SWJ通信は、”「武士道」としての合氣道”について考えてみました。きっかけは、昨年12月2日に、ご縁を戴いて「非営利法人武士道協会」の理事長をお引き受けしたことです。この協会の創設者である立山百代さんが、武士道のキーワードとして「克己心」について書かれた文章に、私が「合氣道の精神」第二段落の「合氣とは、自己に打ち克ち、敵をして闘う心を無からしむ、否、敵そのものを無くする絶対的自己完成の道なり」という「合氣道のキーワード」についてと軌を一にする考え方である、とコメントさせて戴いたのが直接の契機となりました。

 そして、このことがさらに契機となって、私が「合氣道の精神」の探究で、やり残していた第一段落の「合氣とは愛なり、天地の心をもってわが心とし、万有愛護の大精神をもって自己の使命を完遂することこそ、【武の道】であらねばならぬ。」という意味について考えを進めることになりました。その探究の成果をご披露します。ご意見を戴ければ幸いです。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

◆開祖が、合気道の原理を説かれた「合気道の精神」の第一段落で、「合気とは愛なり。天地の心をもって我が心とし、万有愛護の大精神をもって、自己の使命を、完遂することこそ武の道であらねばならぬ」と説かれています。

自己の使命」とは何なのか、「万有愛護の大精神をもって」「完遂する」様な「自己の使命」とは何なのか。

こそ」の意味は何なのか、開祖は、「合気道こそが、真の武道」である、と言っているのか。「武の道であらねばならぬ」とは、どういう意味なのか?武道とは、かくあるべし、しかしそうでない武道が多い、或いは合気道以外の武道は、その様ではないという意味なのか。

「その様ではない」とは、「相手を敵として、捉えて、闘うこと」ではないか。

では「その様」とは、どうするのか。合氣道が他の武道と決定的に異なるのは、「相手を敵として捉えないで、闘いのない境地に導く武道」である。

その事が、「合氣道の精神」の第二段落で説かれている。「合気とは、自己に打ち克ち、敵をして闘う心を無からしむ、否、敵そのものを無くする絶対的自己完成の道なり」と。

第一段落の「自己の使命を完遂することこそ武の道」という言葉と「絶対的自己完成の道」という言葉は、同じ事を説いているものと思われる。

とすると、「絶対的自己」を「完成」させることが「自己の使命」であり、それを「完遂」

「武の道」「であらねばならぬ」

とは、「その様な人間にならねばねらぬ」「その様な人生を生き通さなければならぬ」

武の道」とは、「人が真人」になるための「

「その様な」とは、「絶対的自己」

「絶対的自己」とは、「敵をして闘う心を無からしむ、だけでは無く、敵そのものを無くする自己」

自己」と「」との相対的関係ではなく、「自己と敵とは同一である」という絶対的関係

しかし、人間には「自己防衛本能」がある。それは「考え」や「意識」を超えた「本能」、

という生命体人間化長い歴史の中で脳幹にまで、深く刻み込まれた「本質的能力

人は、猛獣に襲われた時に自己防衛本能で身を守った、

が、社会的生命、「人間」となって、「他人」から攻撃された時、自己防衛本能は、その他人を「」として認知し、その「攻撃(という物理的有形力の行使)に対して反撃(という物理的有形力の行使)する」、そしてその反撃によって、相手を傷付けたとしても、それは「正当防衛」として、傷害罪にはならない。「違法性が阻却される(と考えられ、それが法律的に正しいと認められている)

このことは、万国共通の法律的原理である。その正当性の根拠は、自己と他人との相対的関係、社会において、「自己が正しいならば、他人()を傷付けても良い」ということである。

◆しかし、開祖盛平翁はその様な考え方を取らない。「自己に打ち克ち」「敵そのものを無くする絶対的自己」を「完成する道」を要求する。

「自己に打ち克ち」とは、「克己心」であるが、克たなければならないのが「誘惑に弱い心や安易に流れる怠惰な情」ではなく「人間の本能、本質的能力」であり、しかも、「相対性を原理とする現実的社会では正しいとされている考え方」なのである。二重の、生半可ではない「途方に暮れるほど困難な問題」である。不可能ではないのか。

しかし、開祖盛平翁は、その難問を解く「鍵」をも示してくれている。それが「合氣道の精神」の第一段落の冒頭合氣とは愛なり、天地の心をもって我が心とし、万有愛護の大精神をもって」なのである。

「社会的法的に正しい原理原則」の以前に立ち戻りさらに「人間的本能」の以前にまで立ち戻るとそこには「天地の心」がある

「本能が生まれる以前」の「人」は、「天地の心を我が心としていた」。「天地の心」とは「万有愛護の大精神」、そこまで遡ると、「自己」は、「天地の心」「万有愛護の大精神」「大御霊」の一部、即ち「分御霊」なのであり、「他己」も「分御霊」であり、「自他同一」なのである。

◆この様に「克己心をもって、自他同一を実践すること」「人としての使命」であり、それを「使命」であると極めて「完遂すること」「武の道」「愛の道」「合気の道」である、と開祖は説いている。

 これが「天の理法」(「合氣道の精神」第三段落)であると開祖は言っている。

現代社会では、「攻撃」は、物理的有形力の行使だけではなく、精神的無形力の行使によることもある。この様な攻撃に対しても、同様な方法で反撃するのではなく、「克己心による自他同一、愛、合気によって生きよ」と開祖は説かれているのである。

◆でも、なぜ、これが「武」「武の道」なのか。

このヒントは「武の道」「であらねばならぬ」にある。

これまでの人間社会は、「自他対立」の「相対的社会」であり、そこにおける「武」は、「物理的」であれ、「精神的」であれ、「論理的」であれ、いずれも「勝負」「勝敗」「優劣」の原理に基づく「武」であった。

「他人と闘う武」は、結果として、「相対的対立の無限連鎖」を、「自己の心の中に、そして社会の中に、産み出す」だけである。

そうではなく、開祖は「真の武」とは「他人との闘いではなく、自分の心と身体の中にある社会的常識や本能や欲望との闘い」なのだと説いている。この闘いには、「勝負」がある。もし「自分との闘いに勝つ(吾勝)ことが出来れば、天地の心、自他同一の心を手に入れ、愛、万有愛護の大精神に基づいて生きられる」。もし「自分との闘いに負ければ、相対的勝敗の無限ループから抜け出せない」。

人間は、何もしなければ、弱くて、怠惰で、本能的で、欲望的な存在である。だから、人には、自己と闘い、自己に打ち克つことが「使命」として与えられている。

「自分と闘い自己に打ち克つ志(「使命感」)を持った人」「武士」である。「自分との闘い方、克己心を身に着ける考え方や方法」「武道」であり、「武道を探究して、自己と闘う道程」「武士道」なのである。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

以上の文章を立山百代さんにメールしたら、次のような返信がありました。

「藤谷先生

 

植芝先生の教えはすごい教えだと思います。

それを説明していらっしゃる藤谷先生もすごいです。

意味が充分解からなくても、スーッと体の中に入ってきました。

藤谷先生のおっしゃりたいことがすごくよく分かります。

久しぶりに武士道で感動しています。

最近は武士道を語り合うたびに、気持ちが伝わらないとか、枠にはめてはダメなのに、と思うことが多く、実は失望感ばかりでした。

本当にありがとうございます。嬉しい!!という気持ちでいっぱいです。

 

私は武道と名の付くものには一切触れたことがありません。

だから、武士道協会を設立した時に、「剣道もしたことのない人間に武士道を解けるか!」

と元警察官だった人に言われたり、

「この人が武士道協会? もう少しいい人はいないのですか?」

と塩川先生に紹介された武道館の役員さんに言われたりしました。

主人は少林寺拳法で九州で1位になったり、柔道も高校時代に2段を取ったりしていました。

その主人がいつも言っていることと非常に似ていました。

合気道を知らない私の浅はかな智恵で考えるには無理があるので、生意気で恐縮ですが、拝読した瞬間に浮かんだ勘をこれから書きます。

書き方にも失礼があるかもしれませんがご容赦くださいませ。

 

()が意図して作ったこの3次元の世界・地球という星に生きる者・物の総てがある法則の下で生活をしている。

 すべては元に戻る(元に帰る)

 すべてが循環している

 すべてが自分の物ではなく借り物である(肉体も)

 すべてに独りじめ(占有)はならない

 すべてを分け合う

 すべてに善悪はない

 すべての結果は自分の行いからきている(因果応報)

 すべてに外敵はなく、敵と呼べるのは己の内なる思い()である

 

つまり、「自他同一の心」がなければ、「天地の心をもって我が心とし、万有愛護の大精神をもって、自己の使命を、完遂すること」ができないのだと思います。

ライオンはお腹がいっぱいで、恐怖を感じなければ襲ってこないと聞きます。

満腹で捨てるほど蓄えていても、襲うのは人間くらいかもしれません。

人間の恐怖心は、自分の生き様から生まれてくるものであり、遊牧民をみる限りでは、明日の蓄えがなくても生きることの恐怖はない様に感じます。

自己防衛本能で、も、明日の食べ物がなかったらどうしよう? と満腹の時に考えるから、食べ物を独占したくなるのであり、

自分がいつも他人に分けてあげている人ならば、そういう時も、心配に思う気持ちは浮かばないように思います。

植芝先生のおっしゃっていらっしゃることは、

万有愛護の大精神でいきるとは自分や親族にだけでなく、困っている人がいたら何とか助ける努力をする人になること、ではないかと思いました。

もちろんその時は、自分の家族への責任を全うした上での事でのことですが。

 

だから、「天地の心を持ってわが心とし、万有愛護の精神でいた」ならば、

・合気道の目的は、相手に勝つことではなく、相手を受け入れることなのでは?

・相手の気と自分の愛和の気を合わせることで、相手が自ら戦意を喪失してしまうようになるのではないか?

・殺そう、倒そう、勝とう、などと言う気持ちが自分になければ、相手の気と自分の気を愛により合わせ(合体し)てしまうことが出来るのではないか?

・そうすることで、相手は自分の体であるのに自由に動かせなくなってしまうのではないでしょうか?

・そして、相手の動きが、相手よりも早くわかるのではないでしょうか? だから倒さずとも避けられる

・それは、大人が泣きわめく赤子を抱き上げて泣き止むまであやしながら抱きしめているのと同じ状態になるのでは?

と思いました。

 

克己心は、例え、憎いと思う相手に対しても万有愛護の精神で接することが出来るようになるために必要なものであり、闘うべき対象は、目の前の敵である相手ではなく、自分自身の狭い心なのであると。

つまり、人間は自他同一を自然体でできるようになる為に、この世に生まれて来ているのではないか?

しかし、難しくてなかなかできないから転生輪廻を繰り返しているように思いました。

 

私は一時、真剣に考えたことがあります。

それは、どうしたら二度と生まれてこないで済むのか? ということでした。

1人で3人の子供の生活を見て、しかも、幸せ芝居をしながら生きなければならない学習院

もう生きる事が辛くて逃げ出したい。

だけど、逃げたら子供達にこの苦労を背をわせることになる

自殺は他殺と同じで借りている肉体を綺麗に使って返さなければ閻魔大王に叱られる。

だから、見た目も若く、苦労が表面に出ない様に生きることが必要だ。

どうしたら良いのか? 

と真剣に思っていた時期がありました。

その答えは、二度とこの世に戻らないで済む方法は、西国浄土に行き如来になることでした。

如来になるには、良いことをたくさんしなければ行くことが出来ない。

だから、一生懸命、他人に親切をした時期がありました。

子供の事より他人の事を考えていたと思います。

でも、それは、他人のためにと言う純粋な気持ちではなく、自分の為にでした。

だから、家族よりも他人を優先できたのです。

だから、いくら他人に親切をしても気持ちが楽にはなりませんでした。

いつしか、子供が大人になり、孫まで生まれてきたら、考えなくなっていたことを、先生の文章を拝読して思い出しました。

 

人間が生まれてきた目的は人間全員同一であり、目的を達成させるための方法が違うのだと思います。

方法を各々各自で決めてきているのではないかと思います。

つまり、前世はロッククライミングで失敗したから、今回は尾根道をのんびり行こう、などという感じです。

だから、先生の最後のお言葉、

 

「自分と闘う志を持った人」が「武士」である。

「自分との闘う考え方や方法」が「武道」であり、「武道を探究して、自己と闘う道程」が「武士道」なのである。

 

これを武士道協会の武士道として広めて行きたいです。

感動しました。ありがとうございます。

先生の文章を、理事長挨拶に乗せたいと思いましたが、もう少し短くないと千先生との塩川先生とのバランスがあるので諦めます。 

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 開けましておめでとうございます。絆・勝稲和合塾道場が産声を上げてから2度目のお正月を迎えました。さて、2020年初のK・SWJ通信は、”「武士道」としての合氣道”について考えてみました。きっかけは、昨年12月2日に、ご縁を戴いて「非営利法人武士道協会」の理事長をお引き受けしたことです。この協会の創設者である立山百代さんが、武士道のキーワードとして「克己心」について書かれた文章に、私が「合氣道の精神」第二段落の「合氣とは、自己に打ち克ち、敵をして闘う心を無からしむ、否、敵そのものを無くする絶対的自己完成の道なり」という「合氣道のキーワード」についてと軌を一にする考え方である、とコメントさせて戴いたのが直接の契機となりました。

 そして、このことがさらに契機となって、私が「合氣道の精神」の探究で、やり残していた第一段落の「合氣とは愛なり、天地の心をもってわが心とし、万有愛護の大精神をもって自己の使命を完遂することこそ、【武の道】であらねばならぬ。」という意味について考えを進めることになりました。その探究の成果をご披露します。ご意見を戴ければ幸いです。

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◆開祖が、合気道の原理を説かれた「合気道の精神」の第一段落で、「合気とは愛なり。天地の心をもって我が心とし、万有愛護の大精神をもって、自己の使命を、完遂することこそ武の道であらねばならぬ」と説かれています。

自己の使命」とは何なのか、「万有愛護の大精神をもって」「完遂する」様な「自己の使命」とは何なのか。

こそ」の意味は何なのか、開祖は、「合気道こそが、真の武道」である、と言っているのか。「武の道であらねばならぬ」とは、どういう意味なのか?武道とは、かくあるべし、しかしそうでない武道が多い、或いは合気道以外の武道は、その様ではないという意味なのか。

「その様ではない」とは、「相手を敵として、捉えて、闘うこと」ではないか。

では「その様」とは、どうするのか。合氣道が他の武道と決定的に異なるのは、「相手を敵として捉えないで、闘いのない境地に導く武道」である。

その事が、「合氣道の精神」の第二段落で説かれている。「合気とは、自己に打ち克ち、敵をして闘う心を無からしむ、否、敵そのものを無くする絶対的自己完成の道なり」と。

第一段落の「自己の使命を完遂することこそ武の道」という言葉と「絶対的自己完成の道」という言葉は、同じ事を説いているものと思われる。

とすると、「絶対的自己」を「完成」させることが「自己の使命」であり、それを「完遂」

「武の道」「であらねばならぬ」

とは、「その様な人間にならねばねらぬ」「その様な人生を生き通さなければならぬ」

武の道」とは、「人が真人」になるための「

「その様な」とは、「絶対的自己」

「絶対的自己」とは、「敵をして闘う心を無からしむ、だけでは無く、敵そのものを無くする自己」

自己」と「」との相対的関係ではなく、「自己と敵とは同一である」という絶対的関係

しかし、人間には「自己防衛本能」がある。それは「考え」や「意識」を超えた「本能」、

という生命体人間化長い歴史の中で脳幹にまで、深く刻み込まれた「本質的能力

人は、猛獣に襲われた時に自己防衛本能で身を守った、

が、社会的生命、「人間」となって、「他人」から攻撃された時、自己防衛本能は、その他人を「」として認知し、その「攻撃(という物理的有形力の行使)に対して反撃(という物理的有形力の行使)する」、そしてその反撃によって、相手を傷付けたとしても、それは「正当防衛」として、傷害罪にはならない。「違法性が阻却される(と考えられ、それが法律的に正しいと認められている)

このことは、万国共通の法律的原理である。その正当性の根拠は、自己と他人との相対的関係、社会において、「自己が正しいならば、他人()を傷付けても良い」ということである。

◆しかし、開祖盛平翁はその様な考え方を取らない。「自己に打ち克ち」「敵そのものを無くする絶対的自己」を「完成する道」を要求する。

「自己に打ち克ち」とは、「克己心」であるが、克たなければならないのが「誘惑に弱い心や安易に流れる怠惰な情」ではなく「人間の本能、本質的能力」であり、しかも、「相対性を原理とする現実的社会では正しいとされている考え方」なのである。二重の、生半可ではない「途方に暮れるほど困難な問題」である。不可能ではないのか。

しかし、開祖盛平翁は、その難問を解く「鍵」をも示してくれている。それが「合氣道の精神」の第一段落の冒頭合氣とは愛なり、天地の心をもって我が心とし、万有愛護の大精神をもって」なのである。

「社会的法的に正しい原理原則」の以前に立ち戻りさらに「人間的本能」の以前にまで立ち戻るとそこには「天地の心」がある

「本能が生まれる以前」の「人」は、「天地の心を我が心としていた」。「天地の心」とは「万有愛護の大精神」、そこまで遡ると、「自己」は、「天地の心」「万有愛護の大精神」「大御霊」の一部、即ち「分御霊」なのであり、「他己」も「分御霊」であり、「自他同一」なのである。

◆この様に「克己心をもって、自他同一を実践すること」「人としての使命」であり、それを「使命」であると極めて「完遂すること」「武の道」「愛の道」「合気の道」である、と開祖は説いている。

 これが「天の理法」(「合氣道の精神」第三段落)であると開祖は言っている。

現代社会では、「攻撃」は、物理的有形力の行使だけではなく、精神的無形力の行使によることもある。この様な攻撃に対しても、同様な方法で反撃するのではなく、「克己心による自他同一、愛、合気によって生きよ」と開祖は説かれているのである。

◆でも、なぜ、これが「武」「武の道」なのか。

このヒントは「武の道」「であらねばならぬ」にある。

これまでの人間社会は、「自他対立」の「相対的社会」であり、そこにおける「武」は、「物理的」であれ、「精神的」であれ、「論理的」であれ、いずれも「勝負」「勝敗」「優劣」の原理に基づく「武」であった。

「他人と闘う武」は、結果として、「相対的対立の無限連鎖」を、「自己の心の中に、そして社会の中に、産み出す」だけである。

そうではなく、開祖は「真の武」とは「他人との闘いではなく、自分の心と身体の中にある社会的常識や本能や欲望との闘い」なのだと説いている。この闘いには、「勝負」がある。もし「自分との闘いに勝つ(吾勝)ことが出来れば、天地の心、自他同一の心を手に入れ、愛、万有愛護の大精神に基づいて生きられる」。もし「自分との闘いに負ければ、相対的勝敗の無限ループから抜け出せない」。

人間は、何もしなければ、弱くて、怠惰で、本能的で、欲望的な存在である。だから、人には、自己と闘い、自己に打ち克つことが「使命」として与えられている。

「自分と闘い自己に打ち克つ志(「使命感」)を持った人」「武士」である。「自分との闘い方、克己心を身に着ける考え方や方法」「武道」であり、「武道を探究して、自己と闘う道程」「武士道」なのである。

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以上の文章を立山百代さんにメールしたら、次のような返信がありました。

「藤谷先生

 

植芝先生の教えはすごい教えだと思います。

それを説明していらっしゃる藤谷先生もすごいです。

意味が充分解からなくても、スーッと体の中に入ってきました。

藤谷先生のおっしゃりたいことがすごくよく分かります。

久しぶりに武士道で感動しています。

最近は武士道を語り合うたびに、気持ちが伝わらないとか、枠にはめてはダメなのに、と思うことが多く、実は失望感ばかりでした。

本当にありがとうございます。嬉しい!!という気持ちでいっぱいです。

 

私は武道と名の付くものには一切触れたことがありません。

だから、武士道協会を設立した時に、「剣道もしたことのない人間に武士道を解けるか!」

と元警察官だった人に言われたり、

「この人が武士道協会? もう少しいい人はいないのですか?」

と塩川先生に紹介された武道館の役員さんに言われたりしました。

主人は少林寺拳法で九州で1位になったり、柔道も高校時代に2段を取ったりしていました。

その主人がいつも言っていることと非常に似ていました。

合気道を知らない私の浅はかな智恵で考えるには無理があるので、生意気で恐縮ですが、拝読した瞬間に浮かんだ勘をこれから書きます。

書き方にも失礼があるかもしれませんがご容赦くださいませ。

 

()が意図して作ったこの3次元の世界・地球という星に生きる者・物の総てがある法則の下で生活をしている。

 すべては元に戻る(元に帰る)

 すべてが循環している

 すべてが自分の物ではなく借り物である(肉体も)

 すべてに独りじめ(占有)はならない

 すべてを分け合う

 すべてに善悪はない

 すべての結果は自分の行いからきている(因果応報)

 すべてに外敵はなく、敵と呼べるのは己の内なる思い()である

 

つまり、「自他同一の心」がなければ、「天地の心をもって我が心とし、万有愛護の大精神をもって、自己の使命を、完遂すること」ができないのだと思います。

ライオンはお腹がいっぱいで、恐怖を感じなければ襲ってこないと聞きます。

満腹で捨てるほど蓄えていても、襲うのは人間くらいかもしれません。

人間の恐怖心は、自分の生き様から生まれてくるものであり、遊牧民をみる限りでは、明日の蓄えがなくても生きることの恐怖はない様に感じます。

自己防衛本能で、も、明日の食べ物がなかったらどうしよう? と満腹の時に考えるから、食べ物を独占したくなるのであり、

自分がいつも他人に分けてあげている人ならば、そういう時も、心配に思う気持ちは浮かばないように思います。

植芝先生のおっしゃっていらっしゃることは、

万有愛護の大精神でいきるとは自分や親族にだけでなく、困っている人がいたら何とか助ける努力をする人になること、ではないかと思いました。

もちろんその時は、自分の家族への責任を全うした上での事でのことですが。

 

だから、「天地の心を持ってわが心とし、万有愛護の精神でいた」ならば、

・合気道の目的は、相手に勝つことではなく、相手を受け入れることなのでは?

・相手の気と自分の愛和の気を合わせることで、相手が自ら戦意を喪失してしまうようになるのではないか?

・殺そう、倒そう、勝とう、などと言う気持ちが自分になければ、相手の気と自分の気を愛により合わせ(合体し)てしまうことが出来るのではないか?

・そうすることで、相手は自分の体であるのに自由に動かせなくなってしまうのではないでしょうか?

・そして、相手の動きが、相手よりも早くわかるのではないでしょうか? だから倒さずとも避けられる

・それは、大人が泣きわめく赤子を抱き上げて泣き止むまであやしながら抱きしめているのと同じ状態になるのでは?

と思いました。

 

克己心は、例え、憎いと思う相手に対しても万有愛護の精神で接することが出来るようになるために必要なものであり、闘うべき対象は、目の前の敵である相手ではなく、自分自身の狭い心なのであると。

つまり、人間は自他同一を自然体でできるようになる為に、この世に生まれて来ているのではないか?

しかし、難しくてなかなかできないから転生輪廻を繰り返しているように思いました。

 

私は一時、真剣に考えたことがあります。

それは、どうしたら二度と生まれてこないで済むのか? ということでした。

1人で3人の子供の生活を見て、しかも、幸せ芝居をしながら生きなければならない学習院

もう生きる事が辛くて逃げ出したい。

だけど、逃げたら子供達にこの苦労を背をわせることになる

自殺は他殺と同じで借りている肉体を綺麗に使って返さなければ閻魔大王に叱られる。

だから、見た目も若く、苦労が表面に出ない様に生きることが必要だ。

どうしたら良いのか? 

と真剣に思っていた時期がありました。

その答えは、二度とこの世に戻らないで済む方法は、西国浄土に行き如来になることでした。

如来になるには、良いことをたくさんしなければ行くことが出来ない。

だから、一生懸命、他人に親切をした時期がありました。

子供の事より他人の事を考えていたと思います。

でも、それは、他人のためにと言う純粋な気持ちではなく、自分の為にでした。

だから、家族よりも他人を優先できたのです。

だから、いくら他人に親切をしても気持ちが楽にはなりませんでした。

いつしか、子供が大人になり、孫まで生まれてきたら、考えなくなっていたことを、先生の文章を拝読して思い出しました。

 

人間が生まれてきた目的は人間全員同一であり、目的を達成させるための方法が違うのだと思います。

方法を各々各自で決めてきているのではないかと思います。

つまり、前世はロッククライミングで失敗したから、今回は尾根道をのんびり行こう、などという感じです。

だから、先生の最後のお言葉、

 

「自分と闘う志を持った人」が「武士」である。

「自分との闘う考え方や方法」が「武道」であり、「武道を探究して、自己と闘う道程」が「武士道」なのである。

 

これを武士道協会の武士道として広めて行きたいです。

感動しました。ありがとうございます。

先生の文章を、理事長挨拶に乗せたいと思いましたが、もう少し短くないと千先生との塩川先生とのバランスがあるので諦めます。 

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