NO.5    2019.01.15   合氣道の原理としての「合氣道の精神」と「自他一体」

KSWJ通信 NO.5 2019.1.15

 

  合氣道の原理としての「合氣道の精神」と「自他一体」 塾長 藤谷

 

**************************************************************************************

 

今回は、イナ先生と旧知の間柄であるカナダ・トロントのJCCC合気会の市田さんからの「自他一体」についての質問をきっかけにして、合氣道の原理としての「合氣道の精神」について、考察しました。

 

**************************************************************************************

 

【市田さんからの質問】

 

「植芝開祖のお言葉である『自他一体』の意味と英語の表現について、まず日本語による解説も、人によって①「万物一体」、②「無我の境地」、③「宇宙と一体の自分に敵はない」、④「自己は即ち、他なるが故に、自己を愛する」などと説明されていますが、どうも腑に落ちません。また英語では、⑤" The Union of one with other "  、 ⑥"  I and other being are one "、⑦" One does not have to fight in order to win "などと表現されていますが、これもフィットしません。何か適切な日英語の表現の解説を頂けませんでしょうか。

 

【私の回答】

 

『自他一体』は、開祖が私たちに合氣道の原理として指示して下さった「合氣道の精神」を凝縮した開祖のお言葉です。①~④の日本語の解説も、⑤~⑦の英語の表現も、この合氣道の精神の理解が欠けて一般論的な「自」と「他」の二当事者の関係性を説明しようとしている点がそもそも間違っているのです。

 

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

        合氣道の精神

 

 合氣とは愛なり。天地の心をもってわが心とし、万有愛護の大精神をもって、自己の使命を完遂することこそ武の道であらねばならぬ。合氣とは、自己に打ち克ち、敵をして戦う心を無からしむ、否、敵そのものを無くする絶対的自己完成の道なり。而して、武技は天の理法を体に移し、霊肉一体の至上境に至るの業であり道程である。

 

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 

『自他一体』の四文字により開祖が伝えようとしたものは、合氣道の精神そのものに他ならないのですが、敢えて、『自他一体』の意味として考えるのであれば、「自他一体」とは、「合氣」であり、「愛」であり、「天地の心」であり、「万有愛護の大精神」であり、「自己に打ち克ち、敵をして戦う心を無からしむ、否、敵そのものを無くする」であり、「天の理法を体に移し、霊肉一体の至上境に至ること」です。

 

そして、合氣道の原理としての「自」と「他(敵)」との関係性は、「自も、他も、天地の心=万有愛護の大精神=大御霊の分け御霊であるという意味において、三当事者間の一体関係」(添付の「原理図」参照)なのです。

 

④⑤⑥は、二当事者間の関係としか捉えていないし、①と③は、他を「宇宙」としていますが二当事者関係の変形に過ぎません。

 

なぜ「二当事者関係」でとらえるのか、というと、それは「我思う故に我あり(コギトエルゴスム)」という「意思主義」を基にした「個人主義」の考え方が強く働いているからではないか、と思います。

 

②は、「自」を無くしてしまっている点で、「0当事者関係」とでも言えそうです。合氣道以外の武道では、闘いの局面における心構えとして、良く用いられる言葉です。「他(敵)」との関係で、敵に勝ちたいという自己の欲望を消し去り、水に映る月のような澄み切った心境になることを意味しています。しかし、それは、「自」を「無」にする、という消極的な心的アプローチにすぎません。しかも、その無我の境地の目的は、「他(敵)に勝つ」ことです。

 

しかし、合氣道においては、むしろ「自」の心の在り方として、「他(敵)」も「同じ大御霊の分け御霊として一体なのだ」=「自他一体」という積極的な心的アプローチをしなければならいのです。そしてその目的も「決して他(敵)に勝つことではなく、敵をして闘う心を無からしめ、敵そのものを無くし、愛=天地の心=万有愛護の大精神をもって、導くこと」なのです。

 

だからこそ、合氣道は、絶対に「他に攻撃をしない」「他に物理的暴力を加えない」「(無抵抗主義ではない)無暴力主義」の他に類例を見ない武道なのです。

 

「分け御霊としての自分」「分け御霊としての他人」「分け御霊の元である大御霊」の「三当事者関係」を人間の在り方として理解し、腑に落ちることが『自他一体』を理解するための鍵です。

 

「自分」に攻撃を仕掛けてきた「他人」に相対した時に、自分は分け御霊として大御霊から生み出された存在であるという「自分と大御霊との一体感」を持ち、他人も同じく大御霊から生み出された存在であるとの「他人と大御霊との一体感」の意識をしっかりと持ち、「自分と他人とは大御霊の分け御霊同志」であるという意識(これこそが『自他一体』の意識)を持てるように修行しなさい、と開祖は言っておられるのです。

 

しかし、「他人の暴力に対して自分が暴力をもって身を守ることは正当防衛として違法ではない」という世界共通のルールに表れているように、人間の本性は、反射的に、無意識的に、暴力による反撃をするものなのです。だからこそ、開祖は、私たち一人一人が、その人間の本性に打ち克つこと、本性の変革を求めています。合氣道の精神の「自己に打ち克ち」という言葉には深い意味が込められているのです。

 

開祖の御心の中に、このような合氣道の原理としての「合氣道の精神」が確立されたとき、開祖は「今まで、わしが学んで身に着けたものを全て捨てて、やり直さなければならなくなった」(開祖のお言葉)のです。開祖が、学ばれた柔道も、柳生新陰流も、大東流柔術も全て捨てて、合氣道の精神=自他一体の精神に基づく「武技」を一から発明しなければならなかったのです。これこそが合氣道の精神の「而して、武技は天の理法を体に移」すことの意味なのです。

 

開祖は、このような「原理」を発明し、さらにその原理を実現するための「武技」を発明されたのです。

 

英語の表現にトライしてみると、次のようになります。

 

Under the Source of universe, you & I are the part of her each other.

 

このような「分析」と「理解」に基づいて、「天の理法」を体に移した「武技」を、具体的に解析しようとする試みが「ゼロ化・崩し・制御(導き)の三段階メソッド」です。

 

藤谷拝

***************************************************************************************